朽ちかけた土塀や路地に咲く花、木々の梢を渡る風・・・。
小布施の町を歩いてみると、何気ない風景のなかにも絵心を感じることができる。

江戸時代には、六斎市(3と8の日が市日、月6回)が立つ北信濃の経済の中心地として栄えました。
その繁栄は必然的に北斎や一茶など多くの文人墨客を招き、その中から小布施独自の文化が生まれた。


 





 


 




栗のこみち

 
北斎館
日本唯一の北斎の肉筆画を展示
小布施は、みずから「画狂人」と号した天才絵師葛飾北斎(1760年〜1849年)が、
その晩年に長く逗留し、画業の集大成をはかった特別な場所です。

なぜ北斎の集大成ともいうべき作品が、小布施にあるのか。その謎は、江戸天保の時代まで遡ります。
小布施出身の高井鴻山という商人が、江戸に遊学していた時のこと、
当時、浮世絵師として人気を集めていた葛飾北斎と知り合うのです。
その数年後、旅のついでとでもいった様子で、北斎がふらりと小布施の鴻山を訪ねてきました。
実に北斎83歳の秋のこと。
以後、北斎は都合4回小布施を訪れ、鴻山の援助を受けながら、肉筆画に全力を注いでいくのです。
北斎館は昭和51年(1976年)11月に開館し、北斎が小布施滞在中に描いた掛け軸や額装、
屏風などの肉筆画40余点のほか、別館には2台の祭屋台を常設展示して、
北斎の画業を広くご観覧いただけることになりました。
春朗(しゅんろう)─宗理(そうり)─北斎(ほくさい)─載斗(たいと)─為一(いいつ)─卍(まんじ)と、
画号をかえ、ひとつところに滞在することなく、次々と新しい画域を切り拓き、
嘉永2年(1849年)4月18日、北斎は90歳をもって没しました。


 
高山鴻山記念館  高井鴻山(文化3年〜明治16年/1806〜1883)
 鴻山は、幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ陽明学の教え知行合一の精神で、
“国利民福”の信条をつらぬいた人である。
京都や江戸への遊学で、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修め、自由で幅広い人脈を築いている。

 父の死により高井家の当主となってからも、学問思想に情熱を傾け、佐久間象山をはじめ
当時の日本史を彩った思想家や文人たちとの交流において、鴻山もまた日本の行く末を憂い、
品川お台場の建設に協力するなど巨万の財力を惜しみなく使い幕末の変革に関わったのである。

 また、江戸の浮世絵師葛飾北斎など多くの文人墨客を招き、小布施を文化の香り高い地に育み、
飢饉には窮民を救い、維新では教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に専念し、
人民生活の向上に尽くしたのである。