山内一豊と妻の像 賢夫人として名高い山内一豊の妻千代については近江国坂田郡、 若宮喜助の娘という説が定説とされています。 しかし、郡上では古くから初代八幡城主・遠藤盛数の娘と伝えられていました。 郡上には東家系図・遠藤家系図などゆかりの寺院・家に伝わりその中には明らかに 遠藤盛数の娘・慶隆の妹が山内対馬守(一豊)室(奥様のこと)と記されていました。 郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、 寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至った。 その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、 丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、 旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。 明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。 現在の城は、昭和8年(1933)、当時、国宝であった大垣城を参考に再建され、 木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。 郡上八幡城HP 最近見たお城の中では少々小型です。 日本一の文字 東京の小石川邸中に、一大槙樹があったが倒れた。それは折れて薪ぐらいの大きさになった。 樹心に「日本一」の文字が現れた。 時は安政三年(1856)年三月十八日のことであった。 (解説より抜粋) 天守閣から郡上の町並みを望む |