白虎隊記念館
〒965-0003 福島県会津若松市一箕町大字八幡字 弁天下33
TEL 0242-24-9170FAX 0242-24-9090
営業時間  8:00〜17:00(4月〜11月) 8:30〜16:30(12月〜3月)
入館料  大人(400円) 高校生(300円) 中小生(200円)


飯盛山参道


 
白虎隊士の墓
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦い後、会津藩では軍制をフランス式に変え、
精神論ではなく戦力に重きをおいて、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の年齢による組織に改めました。

当時、会津藩の男子は、10歳になると藩校日新館に入学するきまりになっており、
白虎隊の隊士達は、この日新館で学んだ16から17歳の少年達で編成されていました。


当初は、朱雀隊を第1線に配置し、それに続く青龍隊に国境を護らせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は
その予備ありました。したがって、白虎隊は実際の戦闘に出る予定はなく、主に城中の警護をしていました。

しかし、戊辰戦争が始まり、戦場が会津に移ることで、藩主松平容保は、白虎隊に出陣命令を下した。
一方、日新館は、戊辰戦争の激化に伴い閉鎖となり、臨時病院として使用されるようになりました。
その後、戸ノ口原の戦いに敗れた白虎市中二番隊は、炎に包まれた鶴ヶ城を眺めながら、
飯盛山で壮絶な最後を遂げました。




白虎隊士の墓



白虎隊士の墓の近くにある自決の地
ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し総勢20名が自刃。
一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。



遠くに鶴ヶ城が見えます(白丸のところ)


 
飯沼貞吉の墓と戸の口堰

その後、生き残った飯沼貞吉は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、
そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わった。
同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰冶(さかいみねじ)の手記が近年発見された。
酒井も生前、当時のことは家族にもほとんど話さなかったそうである。

飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された。(左の写真)
(但し、飯沼が生き残った事に対し「武士としての最期を遂げず生き恥をさらした」として非難する向きもあり、
飯盛山の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。




さざえ堂 国重要文化財
飯盛山にある6角3層の旧正宗寺・円通三匝堂[さんそうどう]。
さざえに似ていることから、さざえ堂と呼ばれる。
階段がない螺旋状の坂を登っていくと、いつの間にか下りになっているという不思議な回廊。



 
ヶ城外堀






鶴ヶ城
鶴が城は、1384年に葦名直盛が建立した東黒川館が始まりと言われている。
葦名氏ののち、仙台の伊達氏が治めていたこともある。
文禄年間に、蒲生氏が本格的な天守閣を持つ「鶴が城」を築城した。
17世紀の大地震で、石垣や天守閣は傾いたが、加藤明成が改修し、ほぼ現在と同じ姿を作り上げた。

1643年に保科正之が信州から移封され、23万石の城主となると、
幕末に滅びるまで約240年の間、保科・松平家が会津を支配した。

戊辰戦争では、西軍の執拗な攻撃に約1ヶ月もの篭城戦を戦ったが明治元年(1868年)9月22日、陥落した。
その時受けた砲撃で城壁はボロボロになり、明治7年に陸軍省の命令で取り壊された。
その後、旧藩士遠藤敬祉らの尽力で払い下げられ、再び松平家に献上された。
昭和9年、国の史跡指定を受ける。昭和40年には、当時の姿のままに復元され、現在に至っている。