日新館 入口 『南門』

江戸時代も200年が過ぎ、太平の世になってくると、今までの風習が変わり、気のゆるみもでてきました。
天明2年(1782年)から数年間続いた天明の飢饉をはさんで、会津藩でもいろいろな欠陥がでてきました。
5代藩主松平容頌の時、会津藩家老田中玄宰 は、藩政の改革をするよう進言し、
その中心に「教育の振興」をあげました。このことが「日新館」建設のきっかけとなりました。
日新館をつくるのは、大変な仕事でした着工となってからは大司成 (現在で言えば文部大臣)、
小司成、または日新館の教授、生徒たちまでが、草鞋をはき協力しました。

多額の建設資金は、大商人であった須田新九郎が大半を負担しました。
享和3年(1803年)、五ヶ年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校ができました。
「日新館の教育目標は、人材の育成」の会津藩の方針のもとに、
花色紐組以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。



 











 




大成殿(儒教の祖である孔子を中心に顔子、曽子、孟子の像を安置)


 




水練水馬池
日本最古のプールといわれ、泳法の訓練などをしたそうです



全景 (西側の天文台より撮影)
戊辰戦争で焼失してしまいましたが、昭和62年に完全復元されました。
広さは、東西526m南北116m 面積8000坪 建物1500坪
全国の藩校 300校の中でも規模内容とも随一といわれています。



 




什の掟

日新館入学前の六歳から九歳までは地域ごとに組を作り、お互いに武士としての心構えを学びました。
「什の掟」はその時の規則です。


一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、嘘言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ