郡上八幡の城下町としての歴史は永禄2年(1559)に遠藤盛数が八幡山に城を築いたのがはじまり。
4代城主遠藤慶隆は城下町の整備に力をいれ、神社の建立や寺院の開基につとめました。
あちこちで踊られていた盆おどりをひとつにして城下で踊ることを奨励しました。
これが現在の郡上八幡の観光の基礎となっています。
その50年後の承応1年(1652)城下の片すみで起きた火事は、町全体を焼きつくしました。


6代城主の遠藤常友は寛文7年(1667)、焦土と化した町の復興を手がけます。
まず4年がかりで小駄良川の上流3キロから水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横にはしる水路を建設。

これは生活用水であ ると同時に大火を繰り返さないための防火の目的でもありました。
また近在の寺院を城下に集めて「八家九宗」を形づくり、辻のつきあ たりに配置しました。
通りのつき当たりに寺があり、道の両側を水路が走るという現在の町の景観はこの頃の名残りです。



 



職人町の軒先のバケツ (各家に吊っている)



格子の飾りつけ


 
寺が辻の突き当たりに配置されている。


 



宗祇水(別名 白雲水)
環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水です。

しかし本来は、由緒正しき史跡。

文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、
当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました。

「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」
「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」
惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌が残されています。


 



やなか水のこみち
繁華街の新町から角を曲った町なかの一服の清涼剤のような路地。
玉石を敷きつめた道と水路、柳の並木、大きな家屋敷。歩いている人がみんなちょっといい顔になる小道です。


綺麗な水の吉田川


 
郡上八幡楽芸館(左)と郡上八幡旧庁舎記念館(右)


 
いがわこみち
郡上八幡旧庁舎記念館の横にある鯉や川魚が泳ぐ豊かな用水。
民家の裏手を流れ、夏になればスイカが冷やされオトリに使う鮎が篭に入れてあったりする光景も。

洗濯場が3ヶ所あり近所のおばさんたちの社交の場でもあったりするのですが、
最近はカメラなどを向けられるのを嫌がって、その数は昔と比べると減ったみたいです。

でも川に魚がいる、川の水でものをすすぐ、なんてことは少し前まではごく当たりまえのことでしたが、
それが名所のなるなんて少し哀しい気がしませんか?




洗い場

水と寺の城下町という感じで、やはり歴史を感じます。